生き切るために祭
人が「自分自身を生きよう」と思ったら、学園祭にそのヒントが詰まっているかもしれません。
学園祭には「楽しむため」そして「思い出づくり」のために参加する。ここぞとばかりに盛り上がっても嫌々の強制参加だとしても、必ず誰かと同じ時間を共有する。
ただしそれぞれの価値観、それぞれの目的で「過ごし方」を選ぶことになります。
何をするかは本人次第
「生活のため」という前提を取り払って力いっぱい楽しもうとすれば、他人と揉めることだってある。そんな中でこそ自分自身の本音や歪みに気がつける。
祭に例えるなんて現実逃避のようで不快に思われるかも知れませんが、考える手段として有効だと思います。
仮に経済的な負担をやり過ごす人生から解放されたなら、何を選んで生きるでしょうか?
学園祭で何ができた?
学園祭も高校、大学、専門学校など、組織によって内容が変わりますが…
一般的な大学の学園祭では、芸能人を呼んだりと高校のそれよりもビジネスに近いイベントになっていたと思います。
サークルで出店して楽しむ目的だとしても、商品を現金で売るなら完全に責任あるビジネスです。
仮にあなたが大学生として参加できたなら、望めば飲食店も作れました。
自主制作の映画を公開することも出来たし、演奏をする場も得られたと思います。仕組みを作って祭の運営をすることも、見て回る側の参加者にもなれました。
学園祭の楽しみかたや関わり方は、人それぞれで良かった。誰も見に来ない展示にこだわっても良いし、稼がなくても良い。
本当の人生も同じはず。「不正解はないなー」と思います。
公務員は稼ぎを度外視
災害現場で行動するレスキューは、被災者の前で休むことがないと聞きます。
昔わたしが勤めていた自衛隊では、国の一大事があれば基地から私用での外出は自主的に控えるものと決まっていました。
どちらも理由は同じで、公務員の仕事が民間人に安心してもらう責任を含んでいたからです。
その一方で稼ぐ感覚は無くても良かったし、むしろ稼いではダメとさえ言える特殊な条件でした。
仕事が決まっていて遂行する形。
それも人生と感じながら、私は出店者の考えや消費者の動機への興味が湧いてきたものです。
飽きっぽいと思われるかもしれませんが、別の形でも学園祭を楽しみたい好奇心は自然に起こりました。
実際の人生にどうつながる?
リアルの人生では学園祭と違って期間も24時間ではないしリセットできない。他の誰とも同じではなく2つとない経験こそが、それぞれの人生を最高に貴重なものにしてる。
寝る間を惜しんで欲しい物を獲得しにいくなら、それぞれの過程も結論もバラバラ。常に誰かとどこかですれ違う。それがつらい時もある。
目立ちたい人もいれば、「尊敬されたい」「コントロールしたい」「何か成し遂げたい!」もある。良い悪いはひとまず考えず、動機には個人での違いがある…
人のために生きたい。
愛を探しにきた。
家族って何なのか知りたい。
蓄えがあることで安心する。
学びたい。
もしかしたら自分の「こうしたい」が、他の人を「大切にしない」ことになって今までの人生を送ってきたかも知れません。
だとしたら「今度こそ、大切にする方法を見落とさずに選びたい」と思うのもまた自然なこと。 ひとつずつ人の気持ちがわかるようになっていく。
何度でも再スタート
祭を自分で作るのか、参加者として回るのか。楽しみ方は選べるものです。
受け取ることも役割だと、今はわかる。昔は「何か誰かのためになる動きをしたい!」と必死だったけどそれだけが役割ではないなと思います。
命が続く限り、何かの役割を持ち再スタートしていく。
クレープ生地を焼きまくるのも楽しかったけど、全体の幸福に近づけるように考えてみる。自分の真芯を使い切って役に立ちたい。
新しいチャンスを何度も手にする。
仕事として「1つを極めると決めろ」なんてずいぶん言われてきましたが、私は可能性を諦めて1つ選ぶのとは真逆の場所を探しました。
「何でもやってやる」と、可能性を求めて駆け回る。「自分にしかできないこと」を探すのでもない。
全部を繋いで「これしかできないこと」が見つかりつつあります。
削ぎ落として残るもの
すべての危険を解消して人が働かない時代になっても墓参りは残るのかもしれません。
最後には儀式だけ残ってる。
手を動かしたい人は納得ゆくまで動けば良くて、笑って過ごすことが本当の仕事ではないかと思います。
言いたいことが簡潔に表現できず、長文になってしまいました。ご拝読ありがとうございます。
仕事でも趣味でも学業でも、春からのスタートって良いものですね。
自衛隊での明るい思い出↓