ありったけ生きるブログ

移住して便利屋やってます。

放ったものが自分に戻る

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古物商許可を受けました。新型Tシャツには許可番号も載せてます。

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新オーナーの元へ送りだした原付。

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仕入れた状態では走れなかった車両。部品交換後に塗ってます。

晴れは屋外の仕事、雨天時はバイクの仕事。

おかげさまで仕事にのめり込んでいて、今回は久しぶりの投稿になりました。誰かに頼まれたわけでもないブログですが敢えて再開してみます。

思い出そうともしなかったこと

ひと昔前に単発日雇いの仕事をしていて、現場で携帯電話を落としたことがありました。

落とした場所に居合わせた人が拾ってくれて、その受け取りのために自分を車で送ってくれた人がいたから携帯は手元にもどってきたのでした。

そうして助けられたことがあったわけですが、今度は自分が請けた仕事を手伝ってくれた人がスマホを落としました。

過去に助けられたように、今度は自分が人を助ける機会が来たと思い一生懸命探したけれどそのスマホを見つけられませんでした。

成果が上がるかは別として、いずれにしても恩を受けたら返す機会が来るのだと納得する出来事でした。

今回、その逆に目を向けてみます。

「自分の携帯を探してもらい感謝した」ことがあったのを思い出せてはいるが、よくよく考えると感謝したから覚えてるのではなく、自分が携帯を無くして苦しんだからこそ覚えてた話

自分自身の苦しみを無視しないことは容易にできるけれど、他の誰かを苦しめたことはあまり憶えていません。

何が言いたいかって、「自分が苦しみを与えられた」と不満を感じるのは誰しもできるけど「なぜこうなったのだろう。自分が誰かを苦しめたからだろうか」と思い出そうとする思考回路は持ってない。それを持つなら一味違う生きかたになるということです。

苦痛の連鎖から一歩抜け出すことになります。

(自分はこの仕組みに気づいていなかったので、同じ境遇の誰かに向けて書いてます。「そんなの常識だ」と思う人もいると思いますが大目に見てください)

言い換えるなら「自分の苦しみが誰かの無関心から生まれることがある」という主張は万人に理解されるのに、「自分の無関心が誰かに苦しみを与えてた」のを認めるのが難しいってことです。

生活に取り入れると、次のような反応になります。

自転車のタイヤがパンク。そんな時には「ツイてないな」ではなく「パンク程度で許してくれてありがとうございます」と感じます。

何の清算か自分でもわからないので記憶から探してみると、過去に自転車で踏んだタイヤが飛び石になって対向車のドアにぶつかったことがあった。自転車や道路上でのことに限定しないなら、他にも思い当たる節は無数にある。

すべての罪を数えるなら、他人や動物、植物、鉱石諸々をあらゆる形で苦しめてきたし、今もやめることができていない。だったら「自分が誰を苦しめていたか」と思い出してみたり、「どうしたらそれをやめられるのか」とまわりを見渡しても良いと思うわけです。

「苦痛や後悔が残らない行動」というのは、生き残ることや損得勘定とはかけ離れたものになるかも知れません。

だからこそ、苦しみの連鎖から抜け出す選択には格別の価値があるように思います。

切り捨てた選択肢から恩恵を受けている

人間関係、住む土地、仕事などを体験した結果、「これではない」と避けることがある。その時にひとつ肩書が減る一方で、大切なものが増えている。

偽りなく本心に正直な選択を続ける人たちは、「被害者の会」ではなく「大事なものが何かを知っている集まり」を形成することになります。人間の作るもので、これと同等に価値のあるものはいくつもない。

思い出すと、「そうでないもの」を遠ざけるプロセスから恩恵を受けてきたという事実に気がつきました。

選ばなかったものには選択肢であってくれたことに恩があるし、自分が選ばれなかったものも同じ。相手を尊重するし干渉しないのが恩返しであり、しかも自分の仲間を大切にすることになると思うからそうしてます。

信じると決める

移住して色々なビジネスをしてるのは自分の能力を試すのが目的ではありません。

便利屋として要望に応えるような、人を助ける仕事には価値があると思うから実行しました。本当に人を助けることができているなら、自分は飢えることなく生かされるはず。それが成立せず自分が飢えるなら、自分に生きる価値がないってだけ。

「奪わなければ生きていけない仕組みではない」と信じたからそうしたんです。

自分が生まれる前から「奪うことでしか生きられない仕組み」が完成されつつありました。

そこから抜け出して心で動くとどうなる?と、真剣に考えてゴリ押ししてるのが今です。

飢えや貧しさの反対に陣取るための取引にすぎない仕事、つまり「信じてない」やり方から手を引くと決めて、スケジュールが埋まらない日々も心変わりせず信じてみました。

そうして知らずのうちに積み重ねた1つ1つが、毎日のように自分を救う形になって返ってきます。おかげさまで依頼をクチコミで受けられることも増えました。

頼まれる理由は能力ではなくて「信じているから」に尽きると思います。

ご縁のあった人が次々とコンセプトに共感してくれるので嬉しいかぎりです。