ありったけ生きるブログ

移住して便利屋やってます。

同じ望みに辿りつく分離

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悠々と流れる川の先に、海があって波が打ち寄せてます。

そこは目に見える境界になってました。

混ざってしまえば「どっちも水」というだけの話ですが、それまでは“川と海”という別の呼び名を持っていたし、海は塩水でも川は違う。泳いでいる魚も別々です。

それぞれの経験

人間はどうかと言えば、テレパシーを使えない独立した個人として生まれるし、育った土地も言語も違います。同じ経験も判断材料も持たず思考パターンが違うから、各人は「固有の選択」をします。

その内訳には勘違いや情報不足があって当然。世界をすべて見た人はいないはずです。

体験する唯一無二の世界全部は、思い込みから生まれてると言って良いくらいのもの。

他の人を見て「なぜそんな判断するんだ」と怒ったり、「情報を共有できていれば」と悲しむ場面もあるでしょう。

でも話してみればお互い様だったりしますし、他の人が見てきた経験を知ったり、新たな視点を手に入れることで、1人では辿り着けない選択をするようになるものだとわかりました。

他の人がどうしてその思考になるのかは、かなり丁寧に教えてもらわないと理解できないことも多いです。

ですので恐縮ですが、私が唯一説明できる私自身について、今の望みに到達する過程を振り返ってみます。

教わったのを思い出す

小学校5年生の時に、担任からこんな話を聞きました。

「ニュースは疑え」

「大きなニュースは他の大事件を隠してる」

その先生の専門が社会科だからか、社会に関して鋭く攻めた視点を教えてくれました。

「あの基軸通貨は刷るたび民間某家に莫大な利益」

化学調味料アミノ酸は人毛から作る」

そういった世界の裏と表を理解したいと望んだ私は、学校の勉強が好きになり、中学生の時には公立とは言え270人のなかでトップの成績になったこともあります。

将来稼げる仕事するんじゃない?と大人たちから言われましたが、思い浮かんだ医者や政治家はどう考えても腐敗してるのが多数派なので、まったく目指したいと思いませんでした。

そうなってくると勉強が嫌いになりましたが、県内のほとんどの高校で禁止されてるバイクに乗れるという理由があって、専門学校へ通うためにガリ勉して入試に合格しました。

その学校は中退しましたが実りが無いわけではなく、方向転換するたびに自分が本当に望むものが見えてきました。

「金持ちに騙され貢ぎ続ける社会構造を終わらせたい」

「偏った視点しか持てないのは一生がもったいない」

「誰もが辿り着く普遍的な感覚を知りたい」

そう思うようになりました。

今につながる

大学を卒業して初めての社会人経験は航空自衛隊でした。

「規則の中で生きたら普遍的な感覚がわかるんじゃないか?」と志望しました。朝寝坊夜更かしでルーズに生きてたので、両極端へ振れてみたかったのもあります。

そこで心の動きや仲間同僚の大切さについても大いに学びがあったのですが、知識として爆弾テロの事例も学びました。

小型爆薬を地下鉄の乗り場に仕掛けて爆破→それを見た人々が逃げだして階段に殺到する→人の混雑が起こる位置で2度目の爆発→多くの人が傷つく、というものです。

※先日の通り魔的な地下鉄放火事件とは全く別の話ですし、例え話ではなく関係ありません。

この手口を知った私は、もし同じことが起こって改札に殺到する人達がいたら「罠だから行くな」と声に出して引き止めようと思いました。

その後は今へとつながるのですが、小学5年の担任が言った「ニュースを疑え」という言葉を2019年の冬にも覚えていました。

報道の不整合を確信した2020年3月からは他の人に伝えるために動き出し、良心の呵責に耐えかねた2020年5月にはマスク着用をやめました。「医療詐欺の片棒を担ぐものか」と姿勢を示したつもりです。

選択ひとつだけ

そうして世間一般と違うことを主張すれば、否定され吊し上げられる場合もあります。職を失ったり取引停止されるらしいです。

私の場合は取引先にすべてを伝えたら、自分と近い結論になってくれた場合もありますし、そうじゃないこともありました。

そうじゃない例として「理屈は通ってるけどお客さんや補助金が切れたら困る」「トラブルになったら困る」「政府やテレビがルール」という回答がありました。

誰かと関わるかぎりは「長い物に巻かれるか、自分自身を生きるか」のいずれかへと、例え沈黙しても必ず分岐することになります。

自分じゃない側は敵?

「長い物を長くする権威主義の善良な市民は、自分を脅かす敵でもある」って初めは思いました。でもそれは間違いでした。

自分自身の選択がすべてと本当に言い切れるのなら、自分以外の人類を総動員して命を狙われても、裏切られても、怒ったりしません。

外側に加害者がいると設定して、“自称被害者”の立ち位置をとることが無いわけです。

“罠だと思いつつ他の人に伝える勇気がない”人のことを「詐欺の片棒を担いでる」と批判したこともありますが、それは自分自身の弱さだったと今は理解しています。

本当の望み

各個人の勘違いとか思い込みは、どうやら“間違い”ではなくて「本当の望み」とか「思いやり」を知る過程だったようです。

例えば「長い物を長くする善良な市民」は「権威を好き勝手に悪用する支配者」を仕立てているという構図があります。

どちらかだけを消すのは不可能で、一斉にみんなで卒業するしかないわけです。

その卒業は、全員がそれぞれ「自分自身を生きる人になる」ことで実現されると予想してます。例えば「強力な支配者の下に匿われたい」と思ってしまうのを諦めるのです。

自分自身を生きない選択をするなら、苦しみは消えません。

どうやら誰しもが本音では「支配される生き方は終わりにしたい」と願っていて、その望みが何らかの形で反映される日も、いつか訪れるでしょう。

エゴとか命とか収入に振り回される必要はなくて、外側がどうあっても穏やかに受け取るだけです。