簡単に見つからなかった
すべてを思い通りにできるとしたら、何が大切かを自分自身で見つけられないかも知れません。
苦痛に満ちた望まない時間を過ごすことで、その人は立ち止まって「本当に望む生き方はどういうものか」考えるのだと思います。
強烈な体験の中で拾い出した“教訓”を、自分自身の道標にすることもあるでしょう。「嘘ばかりだから何も信じない」と決めて一生を終えるのも1つの選択肢ですが、「泥のような混沌とした現実で何を信じるのか」を探すこともできる。
私は生きる意味を見つけたいと思いました。
探究心は迷惑?
人生に目的や意味を持たせるような姿勢は、おこがましいと思われるかもしれません。
他人の幸せが自分の幸せ基準と違うのは当然。自分が正しいと主張したり相手を変えることを求めていないのですが、何かにつけて「学び」を考えて関わる人を困惑させることもあります。
その一例は、仕事を変えることです。
過酷な環境では気づきがある
生まれてきた意味がわからないまま大学を卒業した私は、過酷な環境に身を置いて探すことにしました。
マイペースで規則なんて守れる人間ではなかったのに、自衛官になりました。入隊前に思ったとおりの「適応するための苦しみ」があり、その中で成長し、人生で初めて大切な場所や仲間ができたと感じられました。
でも「まだ知らない学びがあるのでは?」と探したくなりました。打ちのめされ足りなかったのです。
公務員は証拠を残すのが仕事ですが、曖昧なものも見たかった。仕事も生き方も無数にあるし、数字や命令ではなく感情で動く世界がある。
決断して退職し、次に勤めたのは食品工場。自分で仕事を作れなかった私が文句を言うとおかしいのですが、過酷な業務と従業員同士の貶め合いの毎日です。勤めていて「ここで働きたくない」と思わされるには十分でした。
2週間人と話さないと、心身の健康を損なうことも知りました。(人並み以上にふてぶてしい人間なのに)
ただしその経験だけでは成長しない。ひとりだと答えは見つからない。
久しぶりに街へ遊びに行き、相談を受けてくれた自衛隊時代の先輩から「これを知っていればすべて」と教わった1つの話が、私の人生を変えました。
原理原則があった
その話というのは、2,500年前にブッダが弟子に話したという『般若心経』です。
ブッダと聞いて「弱ったから宗教に傾倒したの?」と思われるかも知れませんが、ブッダは自身の教えを宗教にしていませんし「宗教やスピリチュアルに依存するべきでは無い」と言ってます。
私が始めに触れたのは“般若心経の現代語訳”でした。
↓当時読んだ記事ではありませんがリンクを掲載します。
般若心経を何度も止まって考えながら読み進めて、ようやく気がついた自分が苦しむ原因は、“自分自身が持つ執着”でした。
預金残高を増やすために生まれたのではない。働くために生きているわけではない。まして生き延びるために生きている訳ではない。
執着を手ばなしてこそ「自分が本当に求めるものが何か」を理解できます。
それは「学び」でした。そのなかでも都合よく生きるためのライフハックではなく、命や時間を超える「心の成長」を求めたい。
もっと知りたいと思って古本屋を探すと、分厚い本『超訳 ブッダの言葉』がなんと360円で置かれていました。即購入。
編訳:小池龍之介
私がこの本に感じている価値は、360円ではまったく収まりません。
もし般若心経を知らなければ、そしてこの本を手にしなければ、私が自分の人生に納得する可能性は生涯を通じて“0”でした。本当に感謝しています。
学びとか改善って?
ブッダは王子として生まれたので不自由がなかったのに、妻子も立場も捨てて修行を選んだそうです。 一般的には自分勝手で迷惑な行動と見られるでしょう。
でもその先で多くの人に出会い、支えたり救うことになります。
「精神的な学びを進めたからといって、偉いかと言えばそれは違う」ともブッダは言ったそうで、これもすごく重要と感じます。
「何を見たいのか」は大切です。見たいものがあって、恐怖を乗り越えて進むのです。
でも「誰と見たい」と願うことは執着なのかも知れません。
知らない人の幸せを願える?
外国で災害があればその土地で生きる人の安否よりも国際情勢を気にする意見が多い。そして自分の土地に影響があるのかを少し心配しておしまい。
「知らない人に思いやりを持つ世界にはならないだろう」と勝手に思っていました。だから関わりのある人を大切にして頑張ろうとしました。
でもブッダの教えを読み返して、事実でないものを恐れていたと気づきます。(自身の内面を観察するの大事!)
すべての人も自然も巻き込んで楽しめるならそれを目指そう。1人でも多くの人に共感してもらうことで実現に近づく。その取り組みとしてブログを書くし人に会うし、新しいことを始めています。
本音を公開するのは恐れもあるけれど、人生捨てて諦めるよりその先を見たい。
このブログを読んでくださる方がいて、投稿を作るので気づきもあります。
生きていたら何だって試せるし、答えをくれる自分以外の人がいる。偉大な自然もある。
そんな「生まれてきた喜び」を忘れて、理屈で納得する「達成の喜び」を追っていましたが、おかげさまで心地よい風や光のような「きっかけのない癒やしと幸せ」を思い出しています。