思ったことを伝える&受け取る
「できるかな」というタイトルにしてますが、「%が多いほど良い」という主張ではありません。
思ったことには、公開するものと仕舞っておくものがあるでしょう。
相手が公開しているはずなのに、受け取る自分自身が正しく理解できてなかったと気づくこともある。自分が本当に望むものを正しく伝えられないこともある。
誰もがその技量向上を目指すべきとは言いませんが、自分なりに行き違いから自由になれないか?を考えてました。
ブログと実生活
どうやらブログに考えを書くことは、伝える練習になっています。
オフライン対面での実生活コミュニケーションなら情報開示しなくても話が進んでいく場合がありますが、文章は勝手に進んでいきません。
どうしてほしいのか言えること。
意見のすり合わせが出来ること。
「察してくれ」では済まないことを、しっかり裏打ちして伝えられるようになりたい。
非言語のコミュニケーションもある
言葉ですべて伝えられるスキルを求めてる一方で、言語ではない「ふわっとしたもの」も正直な情報を伝えると感じています。
言葉はそんなふわっとした「間」とか諸々を埋めるために、後からできたものと思われます。
学者ではありませんが、人が生まれてから言葉を学ぶのだってその順番。だから間違ってないはずです。
ではそんな後付けの「言葉」ってツールに、どれくらいの比重を持たせて良いのだろう?
疑問に思います。
例えば数十年ライターと呼ばれ続けている人たちは、私生活をどうバランスさせているのだろう?
結論はあるのでしょうか?
わかり合えると信じて生きる
人は生きている間ずっと変わり続けますから、どんな方法でも100%わかり合えることは無いのかも。
ふと思い出したのですが、昔の友人と久々に通話したら「君は言葉で説明出来ない時に投げだして諦めがちだったのに、伝えようと諦めなくなった」と言われました。
克服したいって気持ちが私の印象を変えたのかも知れませんが、いつしか伝えることの重要さに気がついたと思います。
「立場を悪くしないための伝える力」なんて損得勘定は、「わかり合うこと」の幸せに気がついた今ではまるで問題ではありません。
感情の共有って生きた人間同士にしかできない。言葉は補助だし、一度で伝えるってものではない。
幸せは「わかり合えること」にある気がします。たとえ1%の共有でも、限りなく大きな出来事です。
自分の気持ちを偽ったり隠すことなく、他人に伝えて共有することだって「できる」と私は信じています。
かと言って「100%の手前ギリギリまで行く」とストイックになると、わかり合うことから遠ざかる別の問題が生まれるでしょう…
どれだけさらけ出すかは人それぞれと思います。上辺の言葉でカッコ良く書ける人なら、いつわって書けてしまうかもしれません。
でも書くことすべてに本音を含ませて、リアルに実生活で会う人にさえ「これ自分が書いてるブログ」とさらけ出せる現実を生きたい。
目的は「わかり合う」ためです。
表現力はブログを書けば鍛えられるでしょうか?
石の上にも3年?