メジロが作業場で待機してました。
木工品の香りが好きなのかも。
丸太を削ってコップとスマホスタンドを作ってます。
木工細工は仕事が無い時に「販売できるものを作れないかな?」と思って始めたのですが、今は利益を考えない趣味としてやってます。
別の仕事が忙しくなってパンクしそうになっているので、狂ってしまいそうな自分をニュートラルに戻すための手作業。
1年前に目指した役割
昨年6月に始めた地域の活動が回りつつあります。
草刈り仕事を請けて他の人と分配したり、バイク屋さんとお客さんをつないだりもできてます。地域の一人親方に喜ばれる看板としての活動がまずひとつ。
他には燻製屋さんの商品を代行出品して売れました。
ネット通販がしたいけどスマホがわからない人には、おとりよせ代行。
新商品も売ってみました。「いいね」はもらえたけど売れてません。
こっちは売れてます。
アクアリウムの水質浄化用牡蠣殻をヤフオクやメルカリで出品したところ、需要があったようで継続的に注文を受け、31個目が売れました。
スキマ時間に準備できるし手を動かすのが楽しいから続けようと思います。
通院で使ってもらえるチャーター便。紹介してもらっておかげ様で動いてます。
こうして色々なジャンルで「お役に立てること」を仕事にできて良かったと自分は思ってますが、世間には“お代金”をいただくのを見ると「悪さをしてる」ように感じる人も多いらしい。「会社の従業員なら良い」って思うらしい。
その風潮から適正価格を下回って請求してましたが、それだとかえってお客さんが困るのもわかる。「うまい請求スタイル」を見つけつつあるような、無いような。
達成ベースではなく喜びベース
この他に以前いた愛知県の先輩を通じて、印刷物の制作依頼をいただいて時間配分しながらやってます。
それも含めて1年前に目指してた活動が「程度はともかくほぼ全て実現してた」のですが、いつの間にか“その達成”は目標では無くなっていたと気がつきました。
達成する瞬間以外に「まだ達成していない」と不足を感じ続けるのは伸びしろにはなりますが、言わば敢えて自分をマイナスと設定してからのスタート。
「何を持っているか」「何を受け取れるか」と、自分の外側をコントロールすることに固執するのなら、失敗と成功の間で振れ続けるだけの未来になるでしょう。
一方でシンプルに「喜びか?」だけを気にすることもできます。喜びを選ぶというのは「恐れを選ばない」ということ。
損得や危険に対して計算高くなるのなら、いつまでも喜びの自分になれないと言えます。恐れてる自分がいるなら見える景色も出来事も恐れ。
抽象的になってしまうので具体例をあげてみます。実際に私が某職人の手伝いで作業した時の状況です。
もし日当を気にして苦痛に耐えながら1万円をもらったら「少ない」と感じたはずです。
でも日当を気にせず「今日も楽しいことあるだろうな」とか「今日も伝説をつくるか」と思いながら働いて1万円もらえたら、それを少ないと感じることはない。
これで日当くれるんですか?とさえ思うし、仕事や関係者にすごく感謝できます。
望むなら「どう感じながら行動するのか」という自分の内側を認識できるし、そのコントロールは無理でも軌道修正はできます。
不足を感じないと決めるなら、ゼロからのスタートであり、マイナスではありません。ラッキーの基準がゆるくなる。
被害もゼロなので被害者ヅラは一切ないし、周りに良い人ばかり居ると感じていられます。
言い方を変えると「我こそは被害者だ」と言ってる時間がもったいなくて、それをやめれば自動的に喜びにならずにはいられないはず。
このことを理解できたから達成や損得にこだわらず、喜びを持ち続けるスタイルを選ぶようにしています。
「喜び」の逆は?
今まで「心配や不安のなかを根性で突き抜ける」というスタイルをカッコ良いと思ってましたが、“根拠がないと信じきれない”とか“行動できない”のは「うまくいかないと信じてる」のと同じです。
不安を消すために行動していたら毎度後手に回るし、押されっぱなし。
心に維持するのは嫉妬でもないし、誰かの意見を変えたい自分でもない。
「恐れていない」「不安にかられない」それ自体を喜びと思っています。
それぞれの人が喜びでいたら、間違い無く「すごい世界」になるはず。