みんなが信じる常識や慣習、それから宗教や権威によって自分の「外側」にある世界は形作られています。
声が大きい人達の「脅し」ひとつで社会は一変するものです。
指標の数字がインチキと知りながらも、黙って“対策済”と書くことを強要される場面もあるでしょう。
この脅しを受け入れる社会が悲しいと思ったので、友人に問いかけて「マスメディアの情報を信じるか?」「自由を奪われることに無関心すぎでは?」なんて出すぎたことも言いました。
直近1年間のくらしで私自身が直面していたのは、嘘か事実かに基づいて「外側を正したい」と執着する気持ちでしたが、出来事や意見や書物に学んだ今、もっと大事なものを理解しました。
「内側」とは?
例えばあなたが自然を見て感動する時、他人が遮ることはできません。
仮に目隠しをされたり視界を遮られても、心動いたことは事実。
「自分の内側に確かな力が生まれた」と言えますし、他の人にはコントロールできないし、代わりがきかないエネルギーと言えるでしょう。
この重要性を伝えているものに“神社の御神体として鏡を置く”というのがあります。
信仰は支配者に改変されているので「偶像崇拝してはならない」「するべし」なんて真反対の考え方まで無数にありますが、私に言えるのは「自分の内側にも創造主の一雫がある」とするのが多くの人に良いだろうってことです。
権威を崇めず自立
縄文時代に政治家はいなくて、人々は調和的な話し合いで物事を決めていたそう。
それぞれが言いにくいことも黙らず言うし、誰かに不利益やしわ寄せがいかない提案もするということなので、成熟した個人の集まりにしかできない手法だと思います。
“偉い人”が全部決めるなんて、未熟な社会のやり方では?
現代日本では泣き寝入りしかできないように躾けられた人を“社会人”と呼びますが、これはまさしく「内側」を軽視するやり方です。
「誰かにすがる気持ち」で生きるのか、それとも内側に「代わりのない力を感じられる」かでは、同じ時間を生きても行動が真逆。
この選択に現状維持は無くて毎秒どちらかへと必ず進んでいます。
もし自分自身の心を感じない選択を続けるなら、いずれ誰とも心通じ合うことが無くなるでしょう。
そうではなく内側にある力を使うのなら、誰もが創造主。あるものしか使わないから特別な能力は不要です。
幸せの原料
「良い」と感じる瞬間に、その人は自身の創造性と出会っています。
しかし経済面や物質面での脅しに私達は“よそ見”を選ばされ、内側を感じないように仕向けられています。意図的に内面を見続けるための対策が必要かもしれません。
他に気をつけたいのは、情報を得るのも大事ですが「それは外側だ」と線をひくべきということです。
「中央銀行・報道・教会」なんて情報で頭をいっぱいにするだけでは感動できません。
何より「自分の内側以外を変えることでしか落ち着けない」ままでいては進歩が無いので、感動を見つけたり本気で笑えることを選びたい。
他に「鏡から“我”を抜けば神」と言うのもあるそうで「なるほど」と思いました。
招待する人になる
よそ見をしてる人に「招待状を出す」ことができます。
例外なく誰もが影響を与え合うひとり。だから「良い」と感じた記録を開示するのも、調和的な世界を創造する手段として確かなひとつだと言えるでしょう。
祖父母から引き継いだ畑を更新中。気が向いたら少しずつ、思いついた時に手を加えます。
「市販サイズでの収穫にこだわらない」ことで家庭菜園の美点が強調されます。間引き菜としていつでも調達できるし味も良い。春菊は成長して固くなる前が美味しい。
自然の中にあって見劣りしない手入れされた海岸。感性を刺激してくれます。