なぜ“すれ違う”のか?
現代人の寿命は昔よりも伸びてるようですが、心のままに過ごせる時間は増えているのでしょうか?
たいして増えてないどころか、もしかしたら減っているかも知れません。
物質面での不足が無く、自分への嘘が無く、円満な人間関係を築く。それらを並立するのは大変に難しく思えます。
欲に流されることなく「みんなに良い行動を!」と信念を持って動き出しても、周囲が諦めて望みを捨てればその動機は空回りになる。
民衆が犠牲になるだけの社会通念や権威思考に行く手を阻まれる。
そうした悔しさを私自身は経験しましたし、時には撤退と再挑戦をして理想を追ってきました。原因も解決法もわかっていませんでした。
結論を諦めずにヒントを探し続け、やっとたどり着いて理解できたのは、原因がだれか個人にある話では無かったということ。
「頑張り」とは無関係だったのです。
原因は信仰の改変
過去に目を向けると、いびつな社会になる前に“賢い民衆”の社会がいくつか見つかりました。
知識が多いとかではなく「人を喜ばせるのが自分の幸せ」という姿勢を各個人が徹底することで矛盾なく調和を維持できるのが、いま僕の思う賢さです。
一人ひとりがクリエイティブなら“奪わずに何世代も続く社会”を築けるし、そこに支配者が入り込む隙はありません。
その理想的な社会は、縄文時代の日本でも実現されていたようです。
かつて思いやりベースの与え合いと「心のままに」生きられた社会があったのに、今は壊れている。
理由はどうやら「社会の仕組みを書き換えられていたから」でした。
無改変の文化と比べる
日本の信仰や文化は何度か、支配者に改変されてきました。近代でも神社の設置物や風習そのものが変えられたとのこと。
そういう改変がどのように作用しているのかは「日本の過去と現在」を比べることでも検証できますが、「ルーツが日本人と同じかも知れない」という“中国の少数民族”の風習からも理解できそうです。
答えを探してこの本にたどり着きました↓
老子の時代には中国で漢民族が支配を広げていたという背景があります。その社会を良く思わない民衆が、南方の少数民族から理想の社会を学ぼうと移住。
そこで老子の文言が残されました。
“支配と調和の分かれ目”に検証された思想は、現代日本でも間違いなく有効なはずです。
エネルギーを正しく認識
「支配者が“性”の扱いをねじ曲げたから人は“欲”に振り回され、生き方を見失った」とも書かれています。
その少数民族の社会は自由だし、ある個人の自由が誰かを困らせることもありません。
各家庭には現代日本からしたら「とんでもないものを模した置き物」が平然と置いてあるということでした。しかし実は明治維新以前の日本に似たものがあったわけですし、現在も一部の祭りには残されています。
では性エネルギーをまっすぐ認識することで問題は無くなるのか?ということですが、それをすんなり納得できる実例が自分の記憶にもありました。
ある意味社会の縮図と言える“老人ホーム”でスタッフとして勤めていた時のことですが、入居していた認知症のおばあさんがたまに全裸で共用スペースに飛び出していたのです。
その方は行動こそ過激に思えますが、年齢のわりに健康的でしたし、精神にゆとりがあって他の入居者とのトラブルも皆無でした。
このことから人間関係で最重要なのは“頑張る”とか“我慢”ではないとわかります。
知るだけで効果あり
いま日本に生きる人達はかつての仕組みを見たことが無くて、これまで迷い続けてきました。
結婚や家庭でもそれは言えることで、制度と実生活にズレを感じている人は少なくなさそうです。
この改変された社会を生きながら、各個人が常識をゼロから作り出すのは不可能に近いですが、過去との比較からも学ぶことができます。
かつての仕組みを再生するのは「これから」の仕組みをつくるのに有効な手段だと確信しました。
【読んだのはこの本です↓】